京焼・清水焼は、京都で作られる焼き物の総称であり、日本の伝統工芸品として高く評価されています。
その歴史は16世紀に遡り、茶道文化と密接に結びつきながら、時代を経て発展してきました。
本記事では、京焼・清水焼の歴史や特徴について詳しく解説します。
(この記事は、京焼・清水焼に携わって10年以上の経験を持つKOTOPOTTER店主・横山雅駿が執筆しています。)
京焼・清水焼の起源
京焼・清水焼の起源は、16世紀の安土桃山時代にあります。
この時期、京都は政治と文化の中心地であり、茶道が盛んに行われていました。特に、茶の湯に用いる茶道具としての陶器が需要を高め、多くの陶工が京都に集まりました。
最も有名な陶工の一人が長次郎であり、彼が生み出した「楽焼」は、茶道具として高く評価されました。楽焼のシンプルで美しい茶碗は、今日でも京焼の象徴的な存在です。
17世紀~ 京焼・清水焼の発展と寺社・貴族の後援
17世紀初頭から、京都の陶工たちは、茶道具に加えて色絵陶器や磁器を制作し始めました。
この時期、京都の寺社仏閣や貴族たちが陶工たちを後援し、茶会や儀式で使用される陶器の制作を支えました。
これにより、陶工たちは経済的な安定を得ながら技術を磨き、独自の装飾技術を発展させることができました。

<野々村仁清 色絵月梅図茶壺 江戸時代・17世紀>
17世紀後半に登場した陶工の野々村仁清は、京焼を大きく発展させた人物です。
仁清は、色絵陶器を極め、特に茶道具としての茶碗や茶入れに美しい装飾を施しました。
彼の作品は、貴族や茶人たちに広く愛され、京焼が日本を代表する陶磁器の一つとして確立されるきっかけとなりました。

<尾形乾山 銹絵葡萄図角皿 江戸時代・18世紀>
また、仁清と並び清水焼の発展に寄与した尾形乾山は、兄の尾形光琳が築いた琳派のデザインを陶器に取り入れ、独自の芸術作品を多く生み出しました。
乾山の作品は、茶道具だけでなく、装飾陶器としても評価され、京焼の芸術性をさらに高めました。
19世紀~ 明治時代の国際化と工業化

<九代帯山与兵衛作色絵金襴手花鳥文大瓶 明治25年>
19世紀末、明治時代になると、日本は開国し、京焼・清水焼も輸出産業として成長を遂げました。
特に京薩摩と呼ばれる華麗な装飾が施された陶器は、海外で高く評価され、万国博覧会などを通じて国際的な注目を集めました。
また、明治時代には工業化が進み、京焼・清水焼は大量生産体制が整えられました。
これにより、国内外で広く普及する一方、伝統技術の保持と品質管理が新たな課題として浮上しました。陶工たちは、工業化の中でいかに伝統技術を守るかを模索し続けました。
20世紀~ 昭和中期から現代までの技術革新

昭和中期になると、ガス窯や電気窯の導入により、京焼・清水焼の制作プロセスは大きく変わりました。温度管理が容易になり、釉薬の発色や焼成の安定性が向上したことで、複雑で美しいデザインの作品が増えました。
一方で、伝統的な薪窯での焼成技法を守り続ける陶工も多く、京焼・清水焼の多様性がさらに広がりました。
現代では、京焼の職人たちが伝統技法を守りつつ、ガス窯や電気窯を活用しながら新しい技術を取り入れています。そのため、京都の陶磁器は国内外で再評価されています。
京焼・清水焼の未来

現在、京焼・清水焼はその技術や美しさを守りながらも、高齢化や後継者不足という課題に直面しています。しかし、多くの陶工たちは、伝統技法を次世代に伝えるための教育や研修を行い、現代的なデザインとの融合を図っています。
京焼・清水焼は、日本の文化遺産としての価値を持ちながらも、常に新しい挑戦を続けています。その歴史と美しさが、これからも国内外で愛され続けることでしょう。

参考文献
・「特別展覧会 京焼 -みやこの意匠と技」京都国立博物館
・「乾山~幽邃と風雅の世界~」 MIHO MUSEUM
・京都府商工労働観光部染織・工芸課「京焼・清水焼 [京都府の伝統的工芸品等]」https://www.pref.kyoto.jp/senshoku/kiyomizuyaki.html
画像の出展
国立文化財機構所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/