ブログをご覧の皆様、こんにちは。
コトポッター店主の横山です。
京焼・清水焼を語る上で欠かせない歴史上の重要な陶工、尾形乾山。
江戸時代の陶工ながら現存する作品も多く、また「乾山写し」として現代でもデザインを取り入れられています。
日本の陶芸に与えた影響の大きさから、彼の作品の中には重要文化財に指定されているものもあります。
今回は名工・尾形乾山を陶匠や文化人、プロデューサーという側面から解説したいと思います!
1. 窯元名としての「乾山」
尾形深省(1663年~1743年)は江戸時代の陶工です。
”乾山”という名は、現在では彼を指す個人名として知られていますが、もともとは彼が開いた窯元の名前でした。
(兄・尾形光琳と合作の角皿。表には光琳の絵による黄山谷の絵と光琳銘)
(同じ角皿の裏側には乾山による漢詩と深省銘)
「乾山」という名は、彼が開窯した鳴滝泉谷の立地に由来するものです。
京都の中央からみた「乾(北西)」の方角に位置する山という地名に由来し、地理的な特徴を活かしたものです。
「乾山」という名は単なる窯元名に留まらず、尾形乾山が手がけた作品とその美学を象徴する言葉となり、乾山焼として浸透していきました。
この名称が持つ響きや印象もまた、彼の作品が広く知られる一因となったといえるでしょう。
2. 文人としての尾形乾山
尾形乾山が活躍した江戸時代中期(18世紀前半)は、長い平和が続く元禄文化の流れを受け継ぎ、都市文化が成熟した時代でした。
この時期、武士や公家だけでなく、町人や商人も茶の湯や書画、和歌といった文化活動に積極的に参加するようになりました。
(乾山作。短冊状の角皿に和歌が描かれている)
(10枚の角皿が収まる箱には乾山深省81歳の箱書き)
商人や職人層が経済的な成功を背景に、教養や趣味を楽しむ文化が花開いたのです。
特に茶の湯は、単なる嗜好を超え、社交や教養を示す場として広まりました。
茶室で交わされる会話や、用いられる道具の選び方には、持ち主の知識や感性が現れます。
茶道具は実用品でありながら、その美しさや文化的価値が重要視され、教養や地位を象徴する存在となりました。
尾形乾山の作品も、こうした文化的背景の中で高く評価されたと考えられます。
また、漢詩や和歌の教養が知識人としてのステータスを示す手段となり、茶の湯や書画との相性も抜群でした。
乾山のうつわに描かれる詩文や草花の絵柄は、当時の富裕層や文化人にとって魅力的な装飾であると同時に、共通の文化的価値観を反映するものでした。
(乾山が描いた桜と春草図。和歌や画にも高い素養があったことがわかる)
さらに、この時代は元禄文化の後継として、都市部を中心に町人文化が成熟しました。
特に京都は、全国から文化人や芸術家が集まる場所として発展し、文化の交差点としての役割を果たしました。
乾山も、こうした環境で得た多様な影響を自身の作品に反映させることで、より多くの人々の心を引きつけるうつわを生み出しました。
大棚の呉服商の子息として生まれ、恵まれた環境で書や禅など多くの教養を身に着けた尾形乾山。
変わりゆく時代背景の中、乾山は自らの知識とセンスを活かし、うつわを単なる道具から「文化を表現するキャンバス」へと昇華させました。
彼の作品は、使い手との対話を生む知的な一面と、美しい装飾を兼ね備えており、当時の人々にとって特別な存在となったのです。
3. 窯元としての尾形乾山
尾形乾山の窯元では、抹茶碗や水指などの茶道具をはじめ、食器や壺など幅広い陶器が制作されました。
当時、茶道具や装飾品としての陶器は文化的価値を持つものとされており、彼の作品もまたその流れに合致するものでした。
(乾山作。椿の絵があしらわれた香合)
乾山は、成形や焼成を職人に任せる分業体制を採用し、自身はデザインや絵付けに集中しました。
現代的に言えば、デザイナーやプロデューサーという立ち位置のほうが彼の作陶への関わりとして正しい表現だと言えます。
いずれにしろ、うつわに描かれる詩や画のその自由闊達な筆使いと洗練された構図は、多くの人々を魅了しました。
彼の作品には、単なる装飾品ではなく、使う人との対話を感じさせる温かみが込められていました。
4. 琳派の美学と斬新なデザイン
尾形乾山の作品には、兄・尾形光琳が確立した琳派の美学が色濃く反映されています。
光琳の蒔絵や絵画に見られる大胆な構図や装飾性は、乾山のうつわにも受け継がれています。
また、乾山は琳派の美学をさらに発展させ、陶器という立体的なキャンバスの中で独自の表現を追求しました。
彼の作品には、漢詩や和歌、山水画や草花をモチーフにしたデザインが多く見られます。
これらの要素は、当時の茶の湯文化や自然への愛着と共鳴し、使い手に深い感動を与えるものでした。
特に、うつわに描かれた詩文や絵画は、乾山の知性と感性が見事に融合したものであり、うつわを手にする人々に新たな発見と喜びをもたらしました。
5. 時代背景と乾山のブランド戦略
(ウィーン万博出展作品。ニール号遭難事故の引き揚げ品の一つ)
乾山が活躍した江戸時代中期、有田で磁器の原料となる陶石が発見され、これまで中国・景徳鎮が独占的に生産していた磁器を日本でも生産できるようになりました。
朝から清朝への政権交代による中国の輸出混乱を背景に景徳鎮などの生産が停滞して時代にあって、有田焼はその精巧な技術と美しいデザインでヨーロッパ市場で大きな注目を浴びました。
やがて、オランダ東インド会社を通じて大量に輸出され、大きな成功を収めたのです。
同時期の京都の焼き物は、陶工・野々村仁清の活躍で脚光を浴びましたが、彼の没後、有田焼の躍進の影になるような形になってしまいました。
この時期にあって乾山は一つのうつわに文学や自然、禅の精神を反映させることで、うつわを越えた芸術性と文化的な意義を与えました。
尾形深省の文人としての教養が焼き物に付加価値を与え、乾山という新しいブランドが受け入れられたのです。
乾山のうつわは京都の焼き物に再び光を取り戻り、芸術性と価値をもたらしました。
6. 後世への影響
尾形乾山の活動は、京焼や清水焼に多大な影響を与えました。
特に、分業による効率的な生産体制や、デザインの芸術性を重視する姿勢は、後の陶芸家にも大きな示唆を与えました。
乾山が手がけたうつわは、実用性を超えた芸術作品として評価され、その影響は現代の陶芸にも受け継がれています。
(江戸時代後期、仁阿弥道八)
(江戸時代後期、永楽和全)
また、乾山の作品に見られる「文学とうつわの融合」というテーマは、現代の陶芸や工芸デザインにおいても一つの指標とされています。
乾山の自由な発想や知的なアプローチは、今日のクリエイターたちにとっても大きなインスピレーションとなっています。
尾形乾山は、江戸時代という文化の成熟期において、文学や自然、禅の精神をつわに込めた陶芸家でした。
その知性と感性を活かしつつ、時代のニーズに応える製品を生み出すことで、多くの人々に愛される作品を残しました。
乾山の作品は、今もなおその美しさと奥深さで人々を魅了し続けています。
画像の出展:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
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いかがだったでしょうか。
今回は尾形乾山の陶工としての姿を追っていきました。
現代に通ずる偉大な陶工、文人としての尾形乾山に興味を持っていただければ幸いです!
コトポッターでは今作られている清水焼の乾山写しの素晴らしいうつわを扱っています。
是非、江戸時代から続く陶芸の神髄をご家庭でも取り入れてみてください。
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