陶芸について

専門家と考える乾山 4/4 ~乾山企画展の裏側とこれからの乾山~ 

専門家と考える乾山 4/4 ~乾山企画展の裏側とこれからの乾山~ 

インタビュイー:畑中章良 さん(MIHO MUSEUM 学芸部長) 「信楽—壺中の天」(1999)「乾山—幽邃と風雅の世界」(2004)、「古陶の譜—中世のやきもの」(2010)などの特別展を担当。企画立案された乾山料理写真集『美し(うまし うるはし)乾山 四季彩菜』は、「グルマン世界料理本大賞」写真部門でグランプリ(2006)とベスト・オブ・ザ・ベスト(2008)20年間のベスト・オブ・ザ・ベスト2015を受賞。 インタビュアー:横山雅駿(コトポッター店主)   Q.MIHO MUSEUM 伝説的な企画展の裏側 横山:ここまで学術的な乾山のお話しをお伺いしてきましたが、やはり畑中さんに一番お伺いしたいのは2004年の企画展「乾山—幽邃と風雅の世界」のお話しです。この企画展の開催にあたっては相当な労力をかけられたと思います。 畑中さん:この展覧会に至るきっかけが、MIHO MUSEUMの乾山コレクションなんですよね。まとまったコレクションがあったので、それと集められるものを見せた展覧会をしたいと創立者の小山美帆秀子さんに相談して、企画展に繋がっていきます。しかし、その間に9.11もあったりして、「飛行機で運べへんのちゃうんか」とか色々心配しましたね。 ※9.11・・・2001年9月11日 アメリカ同時多発テロ事件。 (「乾山—幽邃と風雅の世界」の図録本には海外の美術館やコレクターの名前がずらりと並ぶ。) 横山:海外からもたくさんの作品を借りてきたのですね。 畑中さん:そうですね。乾山の研究しているリチャード・L・ウィルソンさんがいて、誰にコンタクトを取るべきかを教えてもらいました。それで、海外にある乾山の作品を調査することになりました。 ※リチャード・L・ウィルソン・・・乾山研究の第一人者。企画展の図録本にも寄稿。            横山:海外まで調べるのは大変そうですね。 畑中さん:3年くらいかかりました。その間にアメリカのダラスベル美術館から乾山を借りたり、世界2周くらいして各地に行って調査してきました。 横山:すごいですね。海外にも乾山の作品がたくさんあるんですね。 畑中さん:はい、ハワイにもデンマークにもありますよ。乾山の作品は世界各地の美術館で展示されています。いいコレクションを見つけても、もちろんすべての美術館が協力してくれるわけではなく、断られることもありましたよ。 横山:3年で世界2周…大変でしたね。 畑中さん:はい、でも面白かったですよ。行った先でいろいろ食べるものや見るものがあって、こういうきっかけがないと、なかなか行けないですからね。 横山:この企画展の時、私は中学生だったので、乾山のことも知らず見られなかったのが悔やまれますが、図録本として世界中の乾山の作品を見れるようにしてくれたことは凄くありがたいです。今でも参考に見ることが多いです。   Q.乾山と和食、現在も評価される乾山のうつわ 画像:美し 乾山...

専門家と考える乾山 4/4 ~乾山企画展の裏側とこれからの乾山~ 

インタビュイー:畑中章良 さん(MIHO MUSEUM 学芸部長) 「信楽—壺中の天」(1999)「乾山—幽邃と風雅の世界」(2004)、「古陶の譜—中世のやきもの」(2010)などの特別展を担当。企画立案された乾山料理写真集『美し(うまし うるはし)乾山 四季彩菜』は、「グルマン世界料理本大賞」写真部門でグランプリ(2006)とベスト・オブ・ザ・ベスト(2008)20年間のベスト・オブ・ザ・ベスト2015を受賞。 インタビュアー:横山雅駿(コトポッター店主)   Q.MIHO MUSEUM 伝説的な企画展の裏側 横山:ここまで学術的な乾山のお話しをお伺いしてきましたが、やはり畑中さんに一番お伺いしたいのは2004年の企画展「乾山—幽邃と風雅の世界」のお話しです。この企画展の開催にあたっては相当な労力をかけられたと思います。 畑中さん:この展覧会に至るきっかけが、MIHO MUSEUMの乾山コレクションなんですよね。まとまったコレクションがあったので、それと集められるものを見せた展覧会をしたいと創立者の小山美帆秀子さんに相談して、企画展に繋がっていきます。しかし、その間に9.11もあったりして、「飛行機で運べへんのちゃうんか」とか色々心配しましたね。 ※9.11・・・2001年9月11日 アメリカ同時多発テロ事件。 (「乾山—幽邃と風雅の世界」の図録本には海外の美術館やコレクターの名前がずらりと並ぶ。) 横山:海外からもたくさんの作品を借りてきたのですね。 畑中さん:そうですね。乾山の研究しているリチャード・L・ウィルソンさんがいて、誰にコンタクトを取るべきかを教えてもらいました。それで、海外にある乾山の作品を調査することになりました。 ※リチャード・L・ウィルソン・・・乾山研究の第一人者。企画展の図録本にも寄稿。            横山:海外まで調べるのは大変そうですね。 畑中さん:3年くらいかかりました。その間にアメリカのダラスベル美術館から乾山を借りたり、世界2周くらいして各地に行って調査してきました。 横山:すごいですね。海外にも乾山の作品がたくさんあるんですね。 畑中さん:はい、ハワイにもデンマークにもありますよ。乾山の作品は世界各地の美術館で展示されています。いいコレクションを見つけても、もちろんすべての美術館が協力してくれるわけではなく、断られることもありましたよ。 横山:3年で世界2周…大変でしたね。 畑中さん:はい、でも面白かったですよ。行った先でいろいろ食べるものや見るものがあって、こういうきっかけがないと、なかなか行けないですからね。 横山:この企画展の時、私は中学生だったので、乾山のことも知らず見られなかったのが悔やまれますが、図録本として世界中の乾山の作品を見れるようにしてくれたことは凄くありがたいです。今でも参考に見ることが多いです。   Q.乾山と和食、現在も評価される乾山のうつわ 画像:美し 乾山...

専門家と考える乾山 3/4 ~文人・乾山が焼き物に込めた意味とは?~ 

専門家と考える乾山 3/4 ~文人・乾山が焼き物に込めた意味とは?~ 

インタビュイー:畑中章良 さん(MIHO MUSEUM 学芸部長) 「信楽—壺中の天」(1999)「乾山—幽邃と風雅の世界」(2004)、「古陶の譜—中世のやきもの」(2010)などの特別展を担当。企画立案された乾山料理写真集『美し(うまし うるはし)乾山 四季彩菜』は、「グルマン世界料理本大賞」写真部門でグランプリ(2006)とベスト・オブ・ザ・ベスト(2008)20年間のベスト・オブ・ザ・ベスト2015を受賞。 インタビュアー:横山雅駿(コトポッター店主)   Q. 乾山と琳派 横山:ここまでのお話しで乾山の作陶や背景が少しづつわかってきました。続いては琳派との関係についてもお伺いできればと思います。さきほど「琳派は幕府に対する反発」とおっしゃっていましたが、どういったことでしょうか? 畑中さん: 秀吉の頃は京都、大阪が日本の中心でしたけど、江戸時代になると向こうに江戸になってしまう。東の方に政治の中心を取られちゃったわけですよ。琳派は絵で文化の中心は京都だということを示したんです。 洛中洛外図屏風 所蔵:九州国立博物館 画像:Colbase 乾山の生きた時代、寛永年間(一六二四~四五)の京都の景観 横山:すごい口が悪いんですけど、「江戸なんて田舎」って意味でしょうか? 畑中さん:京都の人っていやらしいって言うじゃないですか。思っていることもはっきり言わないとか言うんですけど、本音と言っていることが違うっていうね。それも一つの文化で千年以上続いています。思っていることを露骨に言わずに見せるとかね。ぶぶ漬け(お茶漬け)なんて有名じゃないですか?実は私も体験したことがありますが(笑)。 (ぶぶ漬け。京都では客人にお茶漬けを出し、退室を促すという意味があるとかないとか) 横山:私は京都生まれではないですが、なんとなくおっしゃることはわかります(笑)。 畑中さん:ね(笑)。はっきり言わなくても伝わるという、角を立てないという独特の人間の作り方が京都のね、やっぱり間口が狭くて奥が深いという文化だと思うんですよね。それで出来上がっていくのが、いわゆる琳派のスタート。ある意味で都の人としてのプライド。それを秘めていると思いますよね、乾山とか琳派の作品というのはね。   Q. 乾山焼にこめられた意味 横山:個人的にすごい気になっていたのが、乾山の作品に描かれている漢詩や和歌。あれらはすべてどこかからの引用なのでしょうか? 畑中さん:ほとんど出典があるんですよ。乾山の父親から譲り受けた書物もたくさんあり、自ら手に入れたものもあるでしょうし、膨大な書物をもっていたと思います。 横山:例えば、乾山が参考にしていた書物にはどのようなものがありますか? 畑中さん:円機活法という本が有名ですけど。あの本をよく読んでいたと思います。だいたい角皿など銹絵の作品、あれに漢字の詩が入っているのは、そこから引っ張っているのが多いんですよね。また、和歌も三条西実隆が書いた室町時代の歌集から引っ張ってきていることが多いんですね。自作がゼロというのは言い切れませんが、だいたいそこから引っ張ってきているのが多いですね。 源氏物語 紫式部 画像:Colbase...

専門家と考える乾山 3/4 ~文人・乾山が焼き物に込めた意味とは?~ 

インタビュイー:畑中章良 さん(MIHO MUSEUM 学芸部長) 「信楽—壺中の天」(1999)「乾山—幽邃と風雅の世界」(2004)、「古陶の譜—中世のやきもの」(2010)などの特別展を担当。企画立案された乾山料理写真集『美し(うまし うるはし)乾山 四季彩菜』は、「グルマン世界料理本大賞」写真部門でグランプリ(2006)とベスト・オブ・ザ・ベスト(2008)20年間のベスト・オブ・ザ・ベスト2015を受賞。 インタビュアー:横山雅駿(コトポッター店主)   Q. 乾山と琳派 横山:ここまでのお話しで乾山の作陶や背景が少しづつわかってきました。続いては琳派との関係についてもお伺いできればと思います。さきほど「琳派は幕府に対する反発」とおっしゃっていましたが、どういったことでしょうか? 畑中さん: 秀吉の頃は京都、大阪が日本の中心でしたけど、江戸時代になると向こうに江戸になってしまう。東の方に政治の中心を取られちゃったわけですよ。琳派は絵で文化の中心は京都だということを示したんです。 洛中洛外図屏風 所蔵:九州国立博物館 画像:Colbase 乾山の生きた時代、寛永年間(一六二四~四五)の京都の景観 横山:すごい口が悪いんですけど、「江戸なんて田舎」って意味でしょうか? 畑中さん:京都の人っていやらしいって言うじゃないですか。思っていることもはっきり言わないとか言うんですけど、本音と言っていることが違うっていうね。それも一つの文化で千年以上続いています。思っていることを露骨に言わずに見せるとかね。ぶぶ漬け(お茶漬け)なんて有名じゃないですか?実は私も体験したことがありますが(笑)。 (ぶぶ漬け。京都では客人にお茶漬けを出し、退室を促すという意味があるとかないとか) 横山:私は京都生まれではないですが、なんとなくおっしゃることはわかります(笑)。 畑中さん:ね(笑)。はっきり言わなくても伝わるという、角を立てないという独特の人間の作り方が京都のね、やっぱり間口が狭くて奥が深いという文化だと思うんですよね。それで出来上がっていくのが、いわゆる琳派のスタート。ある意味で都の人としてのプライド。それを秘めていると思いますよね、乾山とか琳派の作品というのはね。   Q. 乾山焼にこめられた意味 横山:個人的にすごい気になっていたのが、乾山の作品に描かれている漢詩や和歌。あれらはすべてどこかからの引用なのでしょうか? 畑中さん:ほとんど出典があるんですよ。乾山の父親から譲り受けた書物もたくさんあり、自ら手に入れたものもあるでしょうし、膨大な書物をもっていたと思います。 横山:例えば、乾山が参考にしていた書物にはどのようなものがありますか? 畑中さん:円機活法という本が有名ですけど。あの本をよく読んでいたと思います。だいたい角皿など銹絵の作品、あれに漢字の詩が入っているのは、そこから引っ張っているのが多いんですよね。また、和歌も三条西実隆が書いた室町時代の歌集から引っ張ってきていることが多いんですね。自作がゼロというのは言い切れませんが、だいたいそこから引っ張ってきているのが多いですね。 源氏物語 紫式部 画像:Colbase...

専門家と考える乾山 2/4 ~乾山焼はどのように受け入れられた?~ 

専門家と考える乾山 2/4 ~乾山焼はどのように受け入れられた?~ 

  インタビュイー:畑中章良 さん(MIHO MUSEUM 学芸部長) 「信楽—壺中の天」(1999)「乾山—幽邃と風雅の世界」(2004)、「古陶の譜—中世のやきもの」(2010)などの特別展を担当。企画立案された乾山料理写真集『美し(うまし うるはし)乾山 四季彩菜』は、「グルマン世界料理本大賞」写真部門でグランプリ(2006)とベスト・オブ・ザ・ベスト(2008)20年間のベスト・オブ・ザ・ベスト2015を受賞。 インタビュアー:横山雅駿(コトポッター店主)   Q.当時の乾山焼の価値 横山: 乾山の作品は、今では十分に価値が認められていると言われていますが、当時の人々の目にはどれくらい価値があったのか気になります。やはり、一部の人しか手に入れられない高級品だったのでしょうか? 畑中さん: そうですね。京都以外の地域から入ってきた普段使いのお茶道具などは町の人々が手に入れたと思いますが、乾山の作品は少し違います。一つはお兄さんとの合作は持っていれば自慢できるものだったと思います。 銹絵牡丹図角皿 光琳画 所蔵:MIHO MUSEUM 画像:乾山~幽邃と風雅の世界~ MIHO MUSEUM 横山: それは当時、かなり価値が高かったということですね。 畑中さん: はい、実際、京都の有名人を集めた本に乾山の名前が出てきます。その本には、有名な絵師・円山応挙や伊藤若冲などが登場し、乾山もその中に名を連ねています。つまり、そういう著名人が作ったものを持っていると、ちょっと自慢できるというような感覚があったのでしょう。 丸山応挙 桜花図 所蔵:東京国立博物館 画像:Colbase 横山: 乾山の陶芸作品は名だたる絵師たちの作品に並ぶ、一種のブランド品だったわけですね。 畑中さん:乾山の生家・雁金屋は東福門院などを顧客とする皇室御用達的な呉服屋でした。兄・光琳の絵もそうですが、雁金屋の御曹司が焼き物をつくるというのはすごいインパクトがあったと思いますよ。当時のひとたち憧れの品だったんじゃないでしょうか。...

専門家と考える乾山 2/4 ~乾山焼はどのように受け入れられた?~ 

  インタビュイー:畑中章良 さん(MIHO MUSEUM 学芸部長) 「信楽—壺中の天」(1999)「乾山—幽邃と風雅の世界」(2004)、「古陶の譜—中世のやきもの」(2010)などの特別展を担当。企画立案された乾山料理写真集『美し(うまし うるはし)乾山 四季彩菜』は、「グルマン世界料理本大賞」写真部門でグランプリ(2006)とベスト・オブ・ザ・ベスト(2008)20年間のベスト・オブ・ザ・ベスト2015を受賞。 インタビュアー:横山雅駿(コトポッター店主)   Q.当時の乾山焼の価値 横山: 乾山の作品は、今では十分に価値が認められていると言われていますが、当時の人々の目にはどれくらい価値があったのか気になります。やはり、一部の人しか手に入れられない高級品だったのでしょうか? 畑中さん: そうですね。京都以外の地域から入ってきた普段使いのお茶道具などは町の人々が手に入れたと思いますが、乾山の作品は少し違います。一つはお兄さんとの合作は持っていれば自慢できるものだったと思います。 銹絵牡丹図角皿 光琳画 所蔵:MIHO MUSEUM 画像:乾山~幽邃と風雅の世界~ MIHO MUSEUM 横山: それは当時、かなり価値が高かったということですね。 畑中さん: はい、実際、京都の有名人を集めた本に乾山の名前が出てきます。その本には、有名な絵師・円山応挙や伊藤若冲などが登場し、乾山もその中に名を連ねています。つまり、そういう著名人が作ったものを持っていると、ちょっと自慢できるというような感覚があったのでしょう。 丸山応挙 桜花図 所蔵:東京国立博物館 画像:Colbase 横山: 乾山の陶芸作品は名だたる絵師たちの作品に並ぶ、一種のブランド品だったわけですね。 畑中さん:乾山の生家・雁金屋は東福門院などを顧客とする皇室御用達的な呉服屋でした。兄・光琳の絵もそうですが、雁金屋の御曹司が焼き物をつくるというのはすごいインパクトがあったと思いますよ。当時のひとたち憧れの品だったんじゃないでしょうか。...

専門家と考える乾山 1/4 ~MIHO MUSEUM・畑中さんに聞く!乾山とは?~ 

専門家と考える乾山 1/4 ~MIHO MUSEUM・畑中さんに聞く!乾山とは?~ 

ブログをご覧の皆様。こんにちは。 コトポッター店主の横山です。 現代まで続く京焼・清水焼の基盤を作った江戸時代の陶工・尾形乾山。 日本陶芸の発展に絶大な影響を与え、独自の世界観を陶芸で表現してきた陶工です。 コトポッター「京焼・清水焼の世界」では、これまで乾山に関わる記事をいくつか掲載してきました。 尾形乾山の生涯と足跡をめぐる 今回は京都の乾山の足跡をめぐりながら、乾山の生涯を回想していきたいと思います。 続きを読む 京焼・清水焼の名工 尾形乾山とは 京焼・清水焼を語る上で欠かせない歴史上の重要な陶工、尾形乾山(…) 続きを読む   しかし、資料や作品を見るだけでは乾山の実像を伝えるのは限界があり、知識人に話を聞かなくては…と思っていました。 そこで、乾山の作品を多数所蔵・展示をされているMIHO MUSEUMさんに取材依頼をお願いしたところ、なんと快く承諾いただけました。 コトポッターは老舗でもない怪しいカタカナ名のECサイトですし、突然の依頼だったので、正直インタビューはお断りをいただくと思っていましたが、懐が深い美術館さまです! 今回のインタビューで乾山の実像と魅力を深堀りできればと思います。   MIHO MUSEUM 営業時間:午前10時~午後5時(最終入館午後4時) 休館日:HPの営業カレンダーをご覧ください アクセス   MIHO MUSEUM 畑中さんに聞く"乾山"  2024年12月中旬、取材の許可をいただき、京田辺の事務所から車で一時間ほどのMIHO MUSEUMさんに行ってきました! MIHO...

専門家と考える乾山 1/4 ~MIHO MUSEUM・畑中さんに聞く!乾山とは?~ 

ブログをご覧の皆様。こんにちは。 コトポッター店主の横山です。 現代まで続く京焼・清水焼の基盤を作った江戸時代の陶工・尾形乾山。 日本陶芸の発展に絶大な影響を与え、独自の世界観を陶芸で表現してきた陶工です。 コトポッター「京焼・清水焼の世界」では、これまで乾山に関わる記事をいくつか掲載してきました。 尾形乾山の生涯と足跡をめぐる 今回は京都の乾山の足跡をめぐりながら、乾山の生涯を回想していきたいと思います。 続きを読む 京焼・清水焼の名工 尾形乾山とは 京焼・清水焼を語る上で欠かせない歴史上の重要な陶工、尾形乾山(…) 続きを読む   しかし、資料や作品を見るだけでは乾山の実像を伝えるのは限界があり、知識人に話を聞かなくては…と思っていました。 そこで、乾山の作品を多数所蔵・展示をされているMIHO MUSEUMさんに取材依頼をお願いしたところ、なんと快く承諾いただけました。 コトポッターは老舗でもない怪しいカタカナ名のECサイトですし、突然の依頼だったので、正直インタビューはお断りをいただくと思っていましたが、懐が深い美術館さまです! 今回のインタビューで乾山の実像と魅力を深堀りできればと思います。   MIHO MUSEUM 営業時間:午前10時~午後5時(最終入館午後4時) 休館日:HPの営業カレンダーをご覧ください アクセス   MIHO MUSEUM 畑中さんに聞く"乾山"  2024年12月中旬、取材の許可をいただき、京田辺の事務所から車で一時間ほどのMIHO MUSEUMさんに行ってきました! MIHO...

尾形乾山の生涯とその足跡を辿る

尾形乾山の生涯とその足跡を辿る

ブログをご覧の皆様。こんにちは。 コトポッター店主の横山です。 現代の陶芸に通じる礎を気づいた陶工・尾形乾山。 京都で生まれ江戸で没した乾山ですが、その生涯の痕跡は今でも多くの場所で見られます。 今回は京都の乾山の足跡をめぐりながら、乾山の生涯を回想していきたいと思います。   1. 幼少期の舞台:雁金屋跡地 尾形乾山が生まれたのは1663年(寛文3年)。 京都の上京区にあった呉服商「雁金屋」の三男として誕生しました。 雁金屋は皇室や将軍家に呉服を納める名門商家で、文化的教養に恵まれた家庭でした。 父・宗謙、兄・光琳とともに能楽や絵画、和歌といった芸術に触れる日々を送りました。しかし、1678年(延宝6年)、東福門院の死去をきっかけに雁金屋は顧客を失い、経営が傾きます。 父・宗謙は大名貸しに手を出しますが回収に失敗し、家業は没落。 それでも宗謙は死後に多くの遺産を残し、兄・光琳は奔放な生活を送り芸の肥やしにし、のちの尾形光琳の大成の礎にしました。 兄とは対照的に内省的な性格であった乾山は書や禅の教えを学び、知的で静かな日々を送ったとされています。 尾形乾山の生家とされる雁金屋の正確な場所は不明ですが、当時の京都の上京区、中立売小川付近が候補地とされています。 2. 禅と陶法を学ぶ:仁和寺南の習静堂 1689年(元禄2年)、乾山は仁和寺の南に「習静堂」を構え、禅の教えを学び始めます。 この静かな環境で、彼は詩文や書に親しみつつ、陶芸の基礎技術を学びました。   この時期、乾山が直接師事したのが御室焼の仁清でした。こ ※御室焼の仁清・・・乾山に陶芸を教えたのは初代仁清(野々村仁清)か二代仁清か研究者でも議論がわかれる。 仁清からは、華やかな色絵技法や茶道具制作の基礎を学びます。 乾山の自筆伝書『陶工必用』(1637年)には、仁清から伝授された技法が詳しく記されており、釉薬の調合や焼成技術の他、窯の管理方法に至るまで、当時の陶芸の最先端が反映されています。   仁清からの教えは、乾山が後に作る抹茶碗や香合、水指など、茶道具の多くに活かされました。 仁和寺の精神的な静けさと仁清の高度な技術が、乾山の陶芸家としての基盤を築いたのです。   乾山が禅と書を学んだ「習静堂」の跡地は残されていませんが、彼がこの地で精神性を育み、陶芸への道を歩み始めた歴史を感じることができます。...

尾形乾山の生涯とその足跡を辿る

ブログをご覧の皆様。こんにちは。 コトポッター店主の横山です。 現代の陶芸に通じる礎を気づいた陶工・尾形乾山。 京都で生まれ江戸で没した乾山ですが、その生涯の痕跡は今でも多くの場所で見られます。 今回は京都の乾山の足跡をめぐりながら、乾山の生涯を回想していきたいと思います。   1. 幼少期の舞台:雁金屋跡地 尾形乾山が生まれたのは1663年(寛文3年)。 京都の上京区にあった呉服商「雁金屋」の三男として誕生しました。 雁金屋は皇室や将軍家に呉服を納める名門商家で、文化的教養に恵まれた家庭でした。 父・宗謙、兄・光琳とともに能楽や絵画、和歌といった芸術に触れる日々を送りました。しかし、1678年(延宝6年)、東福門院の死去をきっかけに雁金屋は顧客を失い、経営が傾きます。 父・宗謙は大名貸しに手を出しますが回収に失敗し、家業は没落。 それでも宗謙は死後に多くの遺産を残し、兄・光琳は奔放な生活を送り芸の肥やしにし、のちの尾形光琳の大成の礎にしました。 兄とは対照的に内省的な性格であった乾山は書や禅の教えを学び、知的で静かな日々を送ったとされています。 尾形乾山の生家とされる雁金屋の正確な場所は不明ですが、当時の京都の上京区、中立売小川付近が候補地とされています。 2. 禅と陶法を学ぶ:仁和寺南の習静堂 1689年(元禄2年)、乾山は仁和寺の南に「習静堂」を構え、禅の教えを学び始めます。 この静かな環境で、彼は詩文や書に親しみつつ、陶芸の基礎技術を学びました。   この時期、乾山が直接師事したのが御室焼の仁清でした。こ ※御室焼の仁清・・・乾山に陶芸を教えたのは初代仁清(野々村仁清)か二代仁清か研究者でも議論がわかれる。 仁清からは、華やかな色絵技法や茶道具制作の基礎を学びます。 乾山の自筆伝書『陶工必用』(1637年)には、仁清から伝授された技法が詳しく記されており、釉薬の調合や焼成技術の他、窯の管理方法に至るまで、当時の陶芸の最先端が反映されています。   仁清からの教えは、乾山が後に作る抹茶碗や香合、水指など、茶道具の多くに活かされました。 仁和寺の精神的な静けさと仁清の高度な技術が、乾山の陶芸家としての基盤を築いたのです。   乾山が禅と書を学んだ「習静堂」の跡地は残されていませんが、彼がこの地で精神性を育み、陶芸への道を歩み始めた歴史を感じることができます。...

京焼・清水焼の名工 尾形乾山とは

京焼・清水焼の名工 尾形乾山とは

ブログをご覧の皆様、こんにちは。 コトポッター店主の横山です。 京焼・清水焼を語る上で欠かせない歴史上の重要な陶工、尾形乾山。 江戸時代の陶工ながら現存する作品も多く、また「乾山写し」として現代でもデザインを取り入れられています。 日本の陶芸に与えた影響の大きさから、彼の作品の中には重要文化財に指定されているものもあります。 今回は名工・尾形乾山を陶匠や文化人、プロデューサーという側面から解説したいと思います!     1. 窯元名としての「乾山」 尾形深省(1663年~1743年)は江戸時代の陶工です。 ”乾山”という名は、現在では彼を指す個人名として知られていますが、もともとは彼が開いた窯元の名前でした。   (兄・尾形光琳と合作の角皿。表には光琳の絵による黄山谷の絵と光琳銘)   (同じ角皿の裏側には乾山による漢詩と深省銘)   「乾山」という名は、彼が開窯した鳴滝泉谷の立地に由来するものです。 京都の中央からみた「乾(北西)」の方角に位置する山という地名に由来し、地理的な特徴を活かしたものです。 「乾山」という名は単なる窯元名に留まらず、尾形乾山が手がけた作品とその美学を象徴する言葉となり、乾山焼として浸透していきました。 この名称が持つ響きや印象もまた、彼の作品が広く知られる一因となったといえるでしょう。     2. 文人としての尾形乾山 尾形乾山が活躍した江戸時代中期(18世紀前半)は、長い平和が続く元禄文化の流れを受け継ぎ、都市文化が成熟した時代でした。 この時期、武士や公家だけでなく、町人や商人も茶の湯や書画、和歌といった文化活動に積極的に参加するようになりました。   (乾山作。短冊状の角皿に和歌が描かれている)  ...

京焼・清水焼の名工 尾形乾山とは

ブログをご覧の皆様、こんにちは。 コトポッター店主の横山です。 京焼・清水焼を語る上で欠かせない歴史上の重要な陶工、尾形乾山。 江戸時代の陶工ながら現存する作品も多く、また「乾山写し」として現代でもデザインを取り入れられています。 日本の陶芸に与えた影響の大きさから、彼の作品の中には重要文化財に指定されているものもあります。 今回は名工・尾形乾山を陶匠や文化人、プロデューサーという側面から解説したいと思います!     1. 窯元名としての「乾山」 尾形深省(1663年~1743年)は江戸時代の陶工です。 ”乾山”という名は、現在では彼を指す個人名として知られていますが、もともとは彼が開いた窯元の名前でした。   (兄・尾形光琳と合作の角皿。表には光琳の絵による黄山谷の絵と光琳銘)   (同じ角皿の裏側には乾山による漢詩と深省銘)   「乾山」という名は、彼が開窯した鳴滝泉谷の立地に由来するものです。 京都の中央からみた「乾(北西)」の方角に位置する山という地名に由来し、地理的な特徴を活かしたものです。 「乾山」という名は単なる窯元名に留まらず、尾形乾山が手がけた作品とその美学を象徴する言葉となり、乾山焼として浸透していきました。 この名称が持つ響きや印象もまた、彼の作品が広く知られる一因となったといえるでしょう。     2. 文人としての尾形乾山 尾形乾山が活躍した江戸時代中期(18世紀前半)は、長い平和が続く元禄文化の流れを受け継ぎ、都市文化が成熟した時代でした。 この時期、武士や公家だけでなく、町人や商人も茶の湯や書画、和歌といった文化活動に積極的に参加するようになりました。   (乾山作。短冊状の角皿に和歌が描かれている)  ...